コミュ力の危機
話が通じない!
なんでそういう解釈をするかな!
これは、私が日本にいる時によく感じることです。
日本人だから(当然)日本語が通じると思いきや、実際はそうでもないのが現実であり、不思議なところなんです💦
あなたも、そう感じることはありませんか?
もちろん「言語としての日本語」は通じます☺️
しかし会話や議論となると「伝わるはず」のことが、どういうわけか伝わらない。
言葉自体は理解できているはずなのに、こちらの意図や前提が正しく受け取られず、思いもよらない反応が返ってくることが多々あります。
例えば、何気なく「一般的にはこうだよね」と話を始めても、
いや、私は違う
そんなの好みの問題でしょ
と、個人的な体験や感情で話がすり替わってしまうことに、戸惑いを覚えたことはありませんか?
当初は私の言い方がおかしいのかな?等々‥反省もしましたし、現在でも常に言動は省みます。
これは、私が日本にいる時によく感じることです。
日本人だから(当然)日本語が通じると思いきや、実際はそうでもないのが現実であり、不思議なところなんです💦
あなたも、そう感じることはありませんか?
もちろん「言語としての日本語」は通じます☺️
しかし会話や議論となると「伝わるはず」のことが、どういうわけか伝わらない。
言葉自体は理解できているはずなのに、こちらの意図や前提が正しく受け取られず、思いもよらない反応が返ってくることが多々あります。
例えば、何気なく「一般的にはこうだよね」と話を始めても、
いや、私は違う
そんなの好みの問題でしょ
と、個人的な体験や感情で話がすり替わってしまうことに、戸惑いを覚えたことはありませんか?
当初は私の言い方がおかしいのかな?等々‥反省もしましたし、現在でも常に言動は省みます。
しかし、どうやら私に落ち度はないようでして🙄
言葉は通じているはずなのに、なぜか意図や論点が伝わらず、会話そのものが噛み合わない――。
この違和感の背景には、日本人社会独特の会話文化、前提や一般論の扱い方に、根の深い血行不良があるんじゃないかと思っています。
そして、こうした「会話のすれ違い」や「議論の空中分解」が、なぜ日本でこれほど頻繁に起こるのか――。
その背後には、言葉の使い方や論理の組み立て方、そして文化的なねじれが複雑に絡み合っているように感じるのです。
本章では、
日本の会話・議論における構造的な問題点と、その背景にある文化や教育について、
言葉は通じているはずなのに、なぜか意図や論点が伝わらず、会話そのものが噛み合わない――。
この違和感の背景には、日本人社会独特の会話文化、前提や一般論の扱い方に、根の深い血行不良があるんじゃないかと思っています。
そして、こうした「会話のすれ違い」や「議論の空中分解」が、なぜ日本でこれほど頻繁に起こるのか――。
その背後には、言葉の使い方や論理の組み立て方、そして文化的なねじれが複雑に絡み合っているように感じるのです。
本章では、
日本の会話・議論における構造的な問題点と、その背景にある文化や教育について、
具体的な事例をもとに(症例として)考察していきます☕
日本では会話や議論が成立しない場面が驚くほど多いが、問題は意見の違いではない。
一般論・前提・比喩を理解する前に、個人の例外や感情的反応が差し込まれ、会話が破綻するのである。
じつに困ったものだ💦
日本人は論理的思考が苦手だと云われるが、江戸時代まで日本には「論理」という概念が存在せず、それは明治時代に西洋から輸入されたそうだ。
このため、日本の伝統的思考は「空気を読む」「あうんの呼吸」など、論理ではなく場の雰囲気や直感で物事を決める文化だった。
💬なぜ会話が成立しない?
一般論・前提・比喩を理解する前に、個人の例外や感情的反応が差し込まれ、会話が破綻するのである。
じつに困ったものだ💦
日本人は論理的思考が苦手だと云われるが、江戸時代まで日本には「論理」という概念が存在せず、それは明治時代に西洋から輸入されたそうだ。
このため、日本の伝統的思考は「空気を読む」「あうんの呼吸」など、論理ではなく場の雰囲気や直感で物事を決める文化だった。
この文化的背景が、現代でも一般論を扱えない会話構造として残っているのかもしれない。
しかし、だからと言って「仕方ないよね」と済ませられるものでは‥もはやない。
なぜならば、日本はすでに日本人だけの国ではないからだ。そして今は、人も情報も価値観も国境を越えて混ざり合い、内輪の前提だけでは社会が回らない時代に入っているからである🌏️
以下の4つの典型的なクセが、日本人が「議論が苦手」と言われる構造的要因である:
1️⃣一般論や前提の説明中に個人話を差し込む
話し手が一般論で説明している最中に、「私は違う」「例外はある」「好みの問題」と個人的な体験や意見を割り込ませる。例えば、私が「エスプレッソには砂糖を入れるといい」と説明しているときに、聞き手が「私は入れないですね」と中断する。
これは一般的な傾向と個人の選択を混同している典型である。
2️⃣例外が反証だと誤解される
一部の例外の存在が、一般論全体を否定する根拠として扱われる。
「すべてのケースに当てはまらない」という理由で、統計的に有意な傾向や一般的なパターンそのものが無効化されてしまう。例外は一般論を覆すものではなく、むしろ一般論の範囲を明確にするものであることがまるで理解されない。
3️⃣論点が共有されない
話し手は「一般的傾向」を議論しているのに、聞き手は「個人の自由」を主張し、議論がすれ違う。
両者が異なるレベル(集団レベル対個人レベル)で話しているため、対話が成立しない。論点の階層を区別できず、議論が平行線をたどる。
4️⃣会話が前に進まない
論点の共有ができないため、同じ主張を繰り返すだけで建設的な議論にならない。新しい情報や視点が加わらず、議論が堂々巡りになる。結果として、問題解決や相互理解に至らず、単なる意見の対立で終わってしまう。これらのパターンは、日本人が「議論が苦手」と言われる構造的要因である。
構造的要因の理解
これらの破綻パターンは、日本の会話文化において深く根付いており、特にオンライン掲示板やSNSでは加速しやすい。一般論と個人例外を区別する能力を養うことが、建設的な議論を可能にする第一歩となる。論理的思考と個人的経験の区別、一般論と特殊事例の関係性の理解、そして議論の焦点を維持する訓練が急務である。
ここで少し事例(症例)を、私が実際に遭遇した「会話が壊れる瞬間」を、いくつか順に挙げていきたい。
ある飲食店で、料理に添えるレモンについてスタッフから質問が出た時のこと。
しかし、だからと言って「仕方ないよね」と済ませられるものでは‥もはやない。
なぜならば、日本はすでに日本人だけの国ではないからだ。そして今は、人も情報も価値観も国境を越えて混ざり合い、内輪の前提だけでは社会が回らない時代に入っているからである🌏️
🚩共通する4つの破綻パターン
会話破綻には明確なパターンがあり、以下の4つの典型的なクセが、日本人が「議論が苦手」と言われる構造的要因である:
1️⃣一般論や前提の説明中に個人話を差し込む
話し手が一般論で説明している最中に、「私は違う」「例外はある」「好みの問題」と個人的な体験や意見を割り込ませる。例えば、私が「エスプレッソには砂糖を入れるといい」と説明しているときに、聞き手が「私は入れないですね」と中断する。
これは一般的な傾向と個人の選択を混同している典型である。
2️⃣例外が反証だと誤解される
一部の例外の存在が、一般論全体を否定する根拠として扱われる。
「すべてのケースに当てはまらない」という理由で、統計的に有意な傾向や一般的なパターンそのものが無効化されてしまう。例外は一般論を覆すものではなく、むしろ一般論の範囲を明確にするものであることがまるで理解されない。
3️⃣論点が共有されない
話し手は「一般的傾向」を議論しているのに、聞き手は「個人の自由」を主張し、議論がすれ違う。
両者が異なるレベル(集団レベル対個人レベル)で話しているため、対話が成立しない。論点の階層を区別できず、議論が平行線をたどる。
4️⃣会話が前に進まない
論点の共有ができないため、同じ主張を繰り返すだけで建設的な議論にならない。新しい情報や視点が加わらず、議論が堂々巡りになる。結果として、問題解決や相互理解に至らず、単なる意見の対立で終わってしまう。これらのパターンは、日本人が「議論が苦手」と言われる構造的要因である。
構造的要因の理解
これらの破綻パターンは、日本の会話文化において深く根付いており、特にオンライン掲示板やSNSでは加速しやすい。一般論と個人例外を区別する能力を養うことが、建設的な議論を可能にする第一歩となる。論理的思考と個人的経験の区別、一般論と特殊事例の関係性の理解、そして議論の焦点を維持する訓練が急務である。
😷短絡的なコミュ破綻
ここで少し事例(症例)を、私が実際に遭遇した「会話が壊れる瞬間」を、いくつか順に挙げていきたい。
ある飲食店で、料理に添えるレモンについてスタッフから質問が出た時のこと。
「付け合わせのレモンって、食べる前提で出すんですか?」
私は「普通は食べない。搾って香りと酸味を足すためのものだ」と答えた。
私は「普通は食べない。搾って香りと酸味を足すためのものだ」と答えた。
するとあるスタッフが「私は食べますよ!友達にも食べる人はいる」と返してきた😓
“食べる人が存在する” ことと、“一般的に食べない”
ことは別の話だ。ここを混同した瞬間、会話はズレる。
もっと露骨に出るパターンもある。
A「皆、称賛してますよ!」
B「多分、称賛はしてないと思うぞ」
A「え?称賛してるコメント、ありますよ!」
Aの切り返しが破綻していることにお気づきだろうか?
もっと露骨に出るパターンもある。
A「皆、称賛してますよ!」
B「多分、称賛はしてないと思うぞ」
A「え?称賛してるコメント、ありますよ!」
Aの切り返しが破綻していることにお気づきだろうか?
Bは「(皆が)称賛しているわけではない/むしろ称賛していないはずだ」と言って、Aの主張を牽制している。
それに対して、Aが返しているのは「称賛している人はいる」という、すり替えに変化。
これはBの主張へのズレた反論であり、すでに会話として成立しなくなっている。
つまり会話の破綻である。
厄介なことに、この手の破綻は日常的に同じような形で起きている。
🚩会話の崩壊と心のすれ違い
それでは、私の専門であるエスプレッソ事例で掘り下げよう☕本家イタリアでは、エスプレッソに砂糖を入れるのが伝統的な飲み方である。
バール(イタリア独自のカフェ業態)でエスプレッソを注文すると、必ずソーサーに砂糖が添えられてくる。これはイタリア全土で見られる文化的慣習であり、統計的にも大多数派の飲み方だ。
つまり、イタリア人でエスプレッソに砂糖を入れないで飲む人を見つけるのは、極めて困難だということだ。
つまり、イタリア人でエスプレッソに砂糖を入れないで飲む人を見つけるのは、極めて困難だということだ。
実際私は、バリスタ28年生としてエスプレッソの飲み方・楽しみ方を人々に伝えている。そしてその多くが、エスプレッソの真価を知り、感動しているのだ✨️
しかしその一方で、短絡的思考によって会話を破綻させる者もいる。
私はエスプレッソの話をしていく過程で、砂糖使用に消極的な人には、次のような比喩を用いて説明をすることがある。
「エスプレッソに砂糖を入れないのは、とんかつにソースをかけないで食べるのと同じです」と。
つまり、エスプレッソに砂糖を入れることは、文化的な背景からとても意義のあることであり、極めて一般的であることを主張しているのだ。
ところがここで、こう返した客がいた。
「私はとんかつにソースはかけないから」
私は呆れて言葉を失った💦
しかしその一方で、短絡的思考によって会話を破綻させる者もいる。
私はエスプレッソの話をしていく過程で、砂糖使用に消極的な人には、次のような比喩を用いて説明をすることがある。
「エスプレッソに砂糖を入れないのは、とんかつにソースをかけないで食べるのと同じです」と。
つまり、エスプレッソに砂糖を入れることは、文化的な背景からとても意義のあることであり、極めて一般的であることを主張しているのだ。
ところがここで、こう返した客がいた。
「私はとんかつにソースはかけないから」
私は呆れて言葉を失った💦
そしてこの客からはすぐに離れた。
この客がとんかつにソースをかける・かけないは、じつのところ全く問題にならない。
私が言っているのは文化と一般論である。にも関わらず、またしても個人の例外的な視点でモノを見ているのだ。
この客がとんかつにソースをかける・かけないは、じつのところ全く問題にならない。
私が言っているのは文化と一般論である。にも関わらず、またしても個人の例外的な視点でモノを見ているのだ。
しかもこの客の一言には、単なる会話破綻では済まない‥日本人特有の歪んだプライド(何の役にも立たないクソ意地)が潜んでいる。
「私はソースをかけない」は、会話の前提を整えるための補足では決してなく、むしろ、「店員ごときの押し付けには従わないぞ!」というあからさまな反発だ。少なくとも私はそう感じたし、傍で見ていた従業員も「絶対わざと言いましたよね!」と口にしたくらいだから😒
このプライドに関することは別の記事で触れるため、ここで深い言及は避けるが、
「私はソースをかけない」は、会話の前提を整えるための補足では決してなく、むしろ、「店員ごときの押し付けには従わないぞ!」というあからさまな反発だ。少なくとも私はそう感じたし、傍で見ていた従業員も「絶対わざと言いましたよね!」と口にしたくらいだから😒
このプライドに関することは別の記事で触れるため、ここで深い言及は避けるが、
こういった会話破綻にはある種のねじれた感情が交錯することが少なくない。特にこういう輩が客の立場になると、じつに鬱陶しく厄介なものになる。クレーム対応をしたことがある人ならものすご~くわかるだろう。
💻️ネット界隈はさらに深刻
ネットのコメント欄になるともっと酷い。なぜなら、顔が見えないうえに文字でのやり取りだから。
文脈が切り刻まれ、即レスの強さだけが重視され、負け筋を「言い換え」で逃げ切れるからである。
例えばこんな具合だ。
A この店、褒めてる人ゼロじゃん。みんな『接客が最悪』って言ってる
B “みんな”じゃない。低評価は一部で、普通〜高評価もある
A いや、『最悪だった』って書いてある
B それは“ある”ってだけ。『みんなが最悪』とは言ってない
A でも『最悪って思う人がいる』のは事実だよね?
この流れがネットの地獄だ。
例えばこんな具合だ。
A この店、褒めてる人ゼロじゃん。みんな『接客が最悪』って言ってる
B “みんな”じゃない。低評価は一部で、普通〜高評価もある
A いや、『最悪だった』って書いてある
B それは“ある”ってだけ。『みんなが最悪』とは言ってない
A でも『最悪って思う人がいる』のは事実だよね?
この流れがネットの地獄だ。
最初は「みんな最悪」(全体の断定)で殴り、反論されたら「最悪と書いた人がいる」(存在)に着地して“言ってることは間違ってない”顔をする。そして主張を縮めて逃げたのに、空気上は勝ったことにするのだ。
こうして、存在と一般論、全体と例外、前提と結論がごちゃ混ぜのまま、議論になっていない議論だけが消耗していく。
ここで使われる“勝ち手”はだいたい同じだ。
ストローマン(相手の主張を歪めて叩く)、ゴールポストの移動(主張を縮めて逃げる)、印象の切り取り、そして短絡的な除外(都合の悪い反例を無かったことにする)。
このような環境では、論理より“手触り”が勝るという幼稚な活劇が物を言うようだ😓
🚩核心は態度と構造
今回のテーマは特に誤解されやすいので明確にしておくが、私は個人の好みや自由を否定しているのではない。
ろくでもないものとして批判しているのは、理解する前に自己主張を差し込む態度と一般論を扱えない会話構造である。
エスプレッソに砂糖を入れない自由、とんかつにソースをかけない自由、レモンを食べる自由、それらはすべて尊重されるものだ。実際、私はエスプレッソの楽しみ方に関しては無限の可能性を示している。
問題は、その個人的選択を、相手の意図を無視したり、一般論への反論として持ち出すことなのだ。
「私は違う」という事実は、「一般的にそうである」という主張と同じ土俵に立つことはない。この区別ができないまま会話に参加すると、会話は破綻するため議論にもならず、解り合うというゴールに到達することも決してない。
日本では「agree to disagree(意見の不一致を認めつつ合意する)」という概念が、全くというほど教えられていない。そのせいで、異なる意見を持つことを「敵対」と捉えるゆえ、コミュニケーションが前進しないのである。
エスプレッソに砂糖を入れない自由、とんかつにソースをかけない自由、レモンを食べる自由、それらはすべて尊重されるものだ。実際、私はエスプレッソの楽しみ方に関しては無限の可能性を示している。
問題は、その個人的選択を、相手の意図を無視したり、一般論への反論として持ち出すことなのだ。
「私は違う」という事実は、「一般的にそうである」という主張と同じ土俵に立つことはない。この区別ができないまま会話に参加すると、会話は破綻するため議論にもならず、解り合うというゴールに到達することも決してない。
日本では「agree to disagree(意見の不一致を認めつつ合意する)」という概念が、全くというほど教えられていない。そのせいで、異なる意見を持つことを「敵対」と捉えるゆえ、コミュニケーションが前進しないのである。
これは地球化に向かっている今・これからにおいて、極めて深刻で致命的な問題であろう。
🍎🍑🍊🍈🍒
経緯と経緯、想像力の欠如
🍎🍑🍊🍈🍒
経緯と経緯、想像力の欠如
問題は意見の違いではなく、前提を共有しないまま話し始めることです。
「存在する」と「一般的」は全く別の概念なので、混同した瞬間、会話・議論・クレーム対応は必ず崩壊してしまいます。
日本の教育では、ディベートや討論の授業がものすご~く限られており、論理的に意見を交わす機会が極めて少ないです。
日本の教育では、ディベートや討論の授業がものすご~く限られており、論理的に意見を交わす機会が極めて少ないです。
正解がある問題に焦点を当てる教育のため、意見の違いを認めることよりも、一つの「正解」に収束することが重視されているのが大きな原因です。
また、島国ジャパン特有の同調圧力‥その強い社会構造も影響しているのです😔
また、島国ジャパン特有の同調圧力‥その強い社会構造も影響しているのです😔
「和をもって貴しとなす」という価値観が強調され、対立を避けることが優先される。しかし、対立を避けることと、論理的な議論を放棄することは全く別なのですよ。
この構造を変えるには、意識的な訓練が必要です。
この構造を変えるには、意識的な訓練が必要です。
「なぜ?」を繰り返す
主語を明確にする、ディベートを通じて意見を戦わせる
これらの実践を通じてこそ、日本人も論理的思考力を磨くことができるはずです🌈
💁
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